クリスタル位牌製作を実現させた社員の思い出
故人との思い出や感謝のお手紙を書いて読む役割があります。これをお焼香の後にやるのが決まりでした。スタッフCの場合には、甥っ子姪っ子がそれを担当していました。
甥っ子と姪っ子は、祖父と一緒に暮らしていたので(祖母は晩年、近所の介護施設にいました)、つい最近までの思い出の話をしてくれました。
一方でスタッフCはというと、子どものころはよく両親に連れられて祖父母に会いにいっていたものの、大人になるとさっぱりでした。とくに、会いに行こうかな……と思っても、そうそう会いにいけない事情もありました。
そんな身近に暮らしていた子どもたちの話が終わると、故人の戒名と、その由来・説法をお坊さんがしてくれました。
スタッフCがびっくりしたのは、後に亡くなった祖父の戒名の由来でした。
祖父の戒名に一部に使われたのは「自然(じねん、と読みます)」。由来は、若い頃は鉱山で働き、その後原野を開墾したことからつけられました。
若い頃は鉱山で働いていたことや、開墾して今の土地に移り住んだことはスタッフCもなんとなく知っていました。ただ、それは思っていたよりもずっと凄いことだったのです。
祖父が遺した偉大な足跡
幼少の頃から東京で育っていたスタッフCからすると、祖父母の住む母方の実家に帰るのは一大旅行でした。実際、東北の港町は、新幹線が内陸を走っていることもあり、実際の距離よりも行きづらいです。
旅の締めくくりは、映画に出てくるようなくねくねした上り坂と、少し大きな病院が建つ横を走る砂利道でした。父や親戚の運転する車、あるいはタクシーで眠ってしまっていても、砂利道に入ると「着いたな」と分かるくらい、特徴的な道だったことを今も覚えています。
ニュースで気仙沼の映像を見たことがある方は、港町の印象が強いと思います。しかし、日本特有の海岸線で、祖父母の住んでいた家は、小さい山の上にありました。畑も持っていたのですが、正直なところ、子ども心にも耕作に向いた土地ではないと思いました。そこで、あるとき祖母に聞いたことがあります。
「なんでこんな畑もしづらそうなところに住んでるの?」
田舎といっても、もっと住みやすそうなところは沢山あったからです。
「ここはじいさんが耕したとこだからなぁ」
と言って祖母は笑っていました。その時は土地を買って、家の辺りを頑張って平らにしたんだな……くらいに思っていました。
ところが、そんな程度ではありませんでした。
お葬式で語られたところによると、祖父が開拓したのは原野とはいえ、野ではなく山でした。そのため、木の根はしっかりとはり、大きな岩なども多くあったといいます。それを、重機もないような時代に人の手でこつこつと開墾していきました。
それは、祖父母が住んでいた家や畑ではなく、その山の一帯で、遠縁の親戚も固まって住んでいました。なぜかというと、全て祖父が開墾したからです。
それから時が経って2011年。東日本大震災が起こり祖父母の住んでいた気仙沼は津波による甚大な被害を受けましたが、幸いなことにスタッフCの親族は、遠縁も含めて皆、無事でした。なぜなら、祖父が開いた元はとても人が住むには向かない山の土地に住んでいたため、津波の被害が届かなかったからです。
また、現在ではその地盤がしっかりしていて、津波の届かない山には親族だけではなく多くの人が移り住み、大きな建物も建ちました。
お葬式の前に行ったときも、すでにスタッフCの知っているのどかな景色ではなくなっていました。ただ、それを悲しく思う親族はたぶん、一人もいないでしょう。復興のため、気仙沼の人のために、祖父の土地が、今、何十年も経ってあらためて人の役に立っているからです。
そんな、偉大な祖父の足跡が戒名に使われた「自然」の2文字には込められていました。
祖母がいて、支えたからこその功労
祖父のその戒名を聞いて、スタッフCは葬儀の後、伯母、叔父に祖母の戒名や思い出について話を聞くことにしました。
「じいちゃんは、まあ、あんな人だったからナァ」
と長男である叔父(今も役場で復興の仕事をしています)は苦笑いを浮かべながら話してくれました。
大酒飲みで、タバコも沢山吸う。若い頃は鉱山(たしか、炭坑だったといいます)で働いていたので長生きできたのが不思議と言われてしまう祖父は、先に書いた通り若い頃は働き者で立派だったのですが、そんな生活だったので近い親族からはあまり評判がよくなかったです。スタッフCの記憶にあるのは、なによりタバコ、「わかば」の臭いです。
昔気質な祖父は、それほど人付き合いが得意ではなかったようです。孫には優しかったので、イメージが湧かないですが、いわゆる「頑固なおじいちゃん」だったと言います。とはいえ、若い頃からなので、親類からすると気難しい人ですね。
そんな気難しい祖父を支えたのが祖母でした。
祖父は重機がない中、土地を拓きましたが、祖母は祖父の農業には向かない土地を一人でせっせと耕して野菜や米を作ったと言います。詳しくは聞けませんでしたが、土地があるだけではもちろんお金にもなりませんし、買い物にいくのも一苦労の場所でした。ですから、一人でやる農業は今と比べものにならないほど大変なことだったようです。
それでも祖母は祖父を支えながら、そして近所に越してきた親族や近所の人と交流をしました。農業だけでなく、いろいろなところで助けあって暮らしていたということです。土地の開拓、農業に限らず、ほとんどすべてのことが不便だった時代、助け合わないで暮らしていくことは文字通り不可能なこと。
祖父は照れ屋だったこともあり、素直に認めることはなかなかなかったようですが、祖母の人付き合い、社交性がなければ多くの人の命を救えるほどの土地は、開墾できなかったでしょう。
お葬式で初めて知る故人の功績と思い出
スタッフCに限らず、祖父母が若い頃、現役時代に何をしていたのかということを知らない人は多いと思います。また、対象も祖父母に限らず、親戚のおじさんやおばさん、または古くから付き合いのある近所の人。
みんな苦労して生きてきたので、家族には当たり前でとくに誰かに伝えようとはしない、「すごいこと」をしていると思います。
また、悲しいことに「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれるような年になる前に、大人になる前に亡くなってしまう子どもたちにも、その人生いっぱいに詰まった思い出があります。
戒名にそのすべてが入りきるとは、スタッフCは思いませんでしたが、その戒名が話題に上るようなものがあれば人に知られていない功績や思い出を、改めてよみがえらせるお手伝いができるのではないでしょうか?
そう考えたスタッフCは、戒名を記すお位牌を新商品として提案することを決めます。とくに、伝統的なお位牌とはケンカをしない、お仏壇のないアパートやマンションでも故人を偲べるような新しい位牌にしようと決めました。